不安解消の極意

東洋医学「気」のある人生-「よしやるぞ!」という決意

東洋医学では、輪に端がないように、昨日から今日へ、そして今日から明日へと、命は永遠に続いているものと考えます。

では、今ここに居るあなたは、なぜこの世に生まれ、こうして人生を送っているのでしょうか?

Silhouette of a beautiful Yoga woman in the morning

「よしやるぞ!」という気動いて物生ず

あなたは、何かをしようとする時には、かならず「よしこれをやろう」と自分で決意し、決断をしてその事に取りかかります。

科学的にも、一つひとつの細胞の中にある遺伝子には人間が人間として一生を送るための計画が全て書き込まれていて、どのような変化にも対応できるのだそうです。

ですから、あなたは、「次はこれをこうしよう」とか「その次にはこれをああしよう」といった決断や変化も、遺伝子に書かれた対応書に従っているから毎日を生きてられるのだと言えます。

例えば、わが子の成長を願う親の心境は、「這えば立て、立てば歩めの親心」などと言い表わされます。

それは遺伝子の情報の中に「しばらくハイハイをした後につかまり立ちをしてその次にはよちよち歩きをして親を喜ばせる……」などと書かれていて、それが順番通りに次々と実行されるためかも知れません。

つまり、あなたの一生は、その命が芽生えた瞬間から全てセットされており、その中での行動や行為は、あらゆる変化に富んでいますが、無秩序なものでも偶然的なものでもないのです。

大した動機もなく、たとえ、ただなんとなくであっても「よしやろう」と気持ちの上で思ったなら、それは何らかの物が生まれる兆しなのです。

東洋医学では、それを「気動いて物生ず」と言います。

例えば、建物を建てるという時でも、どんな建物にするのかを頭の中でイメージすることから始まります。

これが「気動く」状態です。

イメージ(気)が定まれば、次に設計をし、材料を集め、ようやく建築作業に取り掛かることができるのです。

どんなものでも、そのイメージが湧いてこなければ物は成り立ちません。

「気動いて物生ず」ということは、自分に「こういう顔になろう」、「男に生まれよう」、「日本人になろう」と願った過去(気)があったからこそ、今現在の自分(物)が存在しているのだ、と考えることもできます。

誰でも一度や二度は親に対して「頼みもしないのに産んでくれて……」とうそぶいたことがあるでしょう。

でも、今自分がここに生きているということは、そう願う「気」があったからこそなのです。

ですから、自分か存在していることについても、「頼みもしないのに……」というのではなく、「気動いて物生ず」、つまり「その気があって頼んだからこそ産んでもらった」というのが東洋医学的な見方なのです。

人生の前半の「志」から「感動」「彷徨」から「不惑」

あなたは、誕生する前の過去に願っていた気持ちを人生80年の「志」としてその身に携えてこの世に生まれて来るのです。

幼時期から中学校高学年の頃には素晴らしい「感動」を得ます。

あなたの小さい頃のことを思い出してみて下さい。

面白かったことや嬉しかったことが強烈に心に残っているはずです。

「感動」、そのことこそ、自分かこの世に生まれてやりたいと思っていた「志」の原点であるからなのです。

あなたの一生はその感動を原点にしているのです。

感動する力は、社会的風潮に染まる以前の方が強いものです。

世の中には、子供の頃の感動がその人の一生を左右している場合が多くあります。

大学生の頃、つまり脳の機能が最も充実する時は「彷徨」の時代です。

肉体が成長してしまうと次に求められるのは精神的充足感であり、あなたは「個」というものの確立を目指してさまよいます。

畑の野菜にしても、根が生える時、背丈が伸びる時、葉が広がる時、花が開く時、実をつける時、というように、その成長段階には様々な場面があります。

それと同じく、人の場合でも、肉体の成長がピークに達する18歳頃には、新たに精神的な活動も芽生え始めます。

そして、その精神的なエネルギーの爆発力によって、時に傷つきながらも人はあちこちにさまよい、あれこれと迷うのです。

しかし、40歳前後になると、人は「不惑」の時代を迎えます。

自分の一生というものを少し高い所に立って見渡すことができる時、それが「不惑」です。

「不惑」は、たとえ青年の頃に抱いていた夢は破れたにせよ、自分の一生はこういうものだったのか、と納得し、残りの後半生に向かって惑うことなく進むことのできる時期なのです。

人生最大の山「天命を知る」のは

40代のエネルギーの注ぎ方の指標が、「天命を知る」ということです。

あなたは40年も暮らすと、地上の世の中のことはほぼわかってきますが、見えない天のことはよくわかりません。

しかし、人間に心があるならば、天にも大きな心あり、とするのが東洋医学の考え方です。

自分の人生において、最初の「志」が、この地上で全うされたかどうか、もう一度点検するために、天と語り合い、自分の天命を知ることができるかどうか、50歳でこの人生の最大の山場を迎えます。

天命を知ると、その精妙な巧みさに感嘆するばかりの日々となり、天に則し共に歩む楽しみの生活となります。

天からわが命への具体的な情報をその時々に知る最良の方法は、ゆったり随坐の坐忘(禅宗では坐禅)です。

大自然律にゆだねた受信器になりきっているだけで、50歳ともなれば、誰でも必ず天命を知ることができます。

生死は人生の中にもあり

天命を知って10年、人は60歳になり還暦の時を迎えます。

先の「太極図」で見ればよくわかるように、還暦というのは、太陽が東の空から出て西の空に沈むように、人生における昼間の部分をぐるりと二分の一周したという意味なのです。

この60歳の還暦を「耳順」と言い、それからは酸いも甘いも噛み分けた、人生も後半のいよいよ佳境の部分に入って行くわけです。

活動できる間は「老」の期、部屋に閉じこもり死の準備をする「囚」の期の二期に分けられます。

天命を心の耳に聴聞しつつ順うという佳境を楽しんでいるうちに、やがて「死」が訪れるのです。

「志」を持って生まれ、、「感動」を得て、あてどもなく「彷徨」し、「不惑」にたどり着き、「知天命」の感動のうちに「耳順」の佳境を迎え、やがて「死」が訪れる……、これが「気動いて物生ず」でこの世に生まれてきた人間の送る一生の輪郭です。

先に、一日の始まりは夜眠る時であると言いました。

また、人は、寝て起きて、寝て起きて、というリズムを刻んでいるのと同じく、生きて死んで、生きて死んで、という生涯を絶え間なく繰り返していると考えるのが自然の姿です。

人の一生、つまり「志」から「死」に至るまでにおいても、その全ての過程がただ「生」という、単調で平坦な場面ばかりがある訳ではありません。

一生の内にも生死のリズムはあるのです。

80年余の人生をこう過ごしてみよう、という「志」を持ってこの世に生を受けたにもかかわらず、誕生以前に堕胎されてしまったり、幼時期に虐待されてしまったりして、自分の人生が全うできない場合が数多くあります。

親の思いに取り込まれ、自分の「志」を貫くことができず、登校拒否や心身症に陥ってしまう人も沢山居るのです。

持って生まれてきた「志」を大切にして、幼時期の「感動」を上手く体験することができれば、その両者をもとにして、次の「彷徨」の時期には自分自身でさらに一歩前進することが叶うのです。

ですから、人の一生においては、18歳から24歳頃の「彷徨」の時期が、その人の人生の新たな生の出発点でもあるのです。