死ぬことを「絶命する」と言うように、命が絶えてしまえばその一生はそこでおしまいになり、命がなければ一時も生きていることはできません。
それでは、あなたが持っているその「いのち」とはいったいどのような姿をしているのでしょうか。
裸の絵は現代の生理学的な教育の結果
あなたは「人間の図を書いて下さい」と言われた時、どの様な絵を書きますか?
例えば、100人に「人間の図」を書いてもらったとすると、その内で大体80人くらいは裸の図を書きます。
けれど、人間イコール裸という図式ができ上がるほど、日常の生活の中で裸になる機会はまずありません。
お風呂に入る、などという目的がなければ、裸になる事などないに等しいといっても過言ではありません。
「人間の図」を書くように言われて裸の図ができ上がるのは、目に見て学問的に考えてそういうものだと思い込んでいるからなのです。
その裸の絵は人の形をした影のようなものでしかありません。
そうではなく、もっと、「いのち」を持つ生きものとしての人間を表現するとすればどの様になるのでしょうか。
「いのち」を持つものの姿は「地球と大気の図」
「いのち」を持つものの姿として最もわかりやすい喩えは、地球とそれを包み込むように存在する大気の図になるでしょう。
地球は、大気と大地、即ち、天と地から成り立っている生命体です。
もしも、大気、即ち空気がなければ地球はたちまち死の星となってしまいます。
また、私たちにしても、3分間も呼吸を止めれば呆気なく死んでしまうものなのです。
人間の体など脆いものです。
ですから、地球とそれを包む空気層、つまり物体の周囲に気体が存在するという構造は、「いのち」の姿を表わす例の典型であると考えられるのです。
人間も、基本的にはその様な地球の姿と同じ構造をしています。
つまり、地球に大地と大気があるように、人間にも身体と心があって初めていのちとして存在が可能になる、という当たり前のことなのです。
人間の「心」の姿「心」の形はどのようなもの
今、社会ではファジー(曖昧な)という言葉が流行っていますが、「心」とは何か、と面と向かって問われれば、ほとんどの人は曖昧であやふやな返答しかできないでしょう。
しかし、東洋医学は、医学であり宗教ではありませんから漠然とした答を出す訳には行きません。
例えば、精神科に来院した患者さんに「精神は広くて偉大なものですからひたすら委ねていればよろしい」と言っていたのではとても医者は務まらないのです。
現状を分析し、分類して、何らかの症状名を見出して、それに対する治療や投薬を行なうのが医学です。
医学は非常に具体的なものですから、それは実学とも言えます。
医学といっても西洋医学と東洋医学は異なります。
東洋医学にとっては「心」といえどもとても具体的なものなのです。
心の姿はハートの形や円形をしていると考えればよいでしょう。
これは、目にも見えますし、手に触れることもできます。
現実に目に見えたからこそ、多くの聖人たちが仏像に光背として彫刻したのです。
これが東洋医学でとらえた「いのち」の姿であり、「こころ」の姿であるのです。
それは地球の空気の層の中に「いのち」が生き生きと息づいているというのと全く同じ理論です。
薄暗い夕暮れ時、あるいは朝の早い時間などに、壁を後ろにして立っている人を見ると、頭のあたりがポーツと明るくなっているのを見ることができます。
ただし、見ようとしなければ駄目です。
そして、段々と慣れるうちに、よく目を凝らして見てみると、それが陽炎のようであり、仏像の光背の形そっくりであることに気がつきます。
あなたは、仏像の光背や身光の形に似たいのちの層が存在する体表面が大切であることを本能的に知っているからこそ、衣服を身につけるのです。
また、自分が似合うと思う服をそれぞれがばらばらに着ているのは、個人個人の精神性、即ちこころの現われを、体表面から約十センチ以内の部分でそれぞれが表現しているからです。